エラ・フィッツジェラルドというヒト。
- キクチテッペイ
- 2017年5月29日
- 読了時間: 3分
今日は久しぶりに音楽の話を。

エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)
1917年4月25日 - 1996年6月15日
アメリカ合衆国のジャズ・シンガーでビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストの1人。
13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュからは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けました。
彼女は幼い頃、境遇の劣悪化にともない、学業への関心は薄れ、やがてマフィアの下働きなどをするようになりました。
警察による補導や少年院送りを繰り返しながら、ホームレス生活までも経験したそうです。
そんな彼女の運命を変えた一夜が、1934年11月21日。
当時17歳だったエラ・フィッツジェラルドが出場したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイトでしました。
コンテストで優勝したエラ・フィッツジェラルドはチック・ウェブズ・バンドに見いだされ、翌年からジャズ・ボーカリストとして活動していくことになったのです。
僕が彼女に出会ったのは中学生の頃。
当時パンクやハードコアなロックに陶酔していた僕でしたが、ジャズ好きの父が車内でふと『マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン(”Mack The Knife” Ella In Berlin)』でした。
タイトル通りドイツのベルリンで行われたライブの模様が収められ1960年に発表されたアルバムです。
代表曲でもある「マック・ザ・ナイフ」を聴いた時は、彼女の女性らしさの中に垣間見える渋さと、圧倒的な歌唱力に文字通り”痺れた”のを今でも覚えています。
父の影響で大好きになったジャズマンは多いですが、女性シンガーで言えば僕の中の永遠のナンバーワンです。
家庭環境からくる貧困や黒人差別などを乗り越え、「ジャズ・ボーカルの女王」と称えられたエラ・フィッツジェラルド。
晩年は病と闘ったエラの最大の魅力は安定感。
アドリブは少ないものの彼女の生真面目さが高い水準で一定のボーカルを聴かせてくれるのです。
エラ・フィッツジェラルドは50代後半から糖尿病を発病し、最後には失明してしまいました。
レコードは1989年に発売された『All That Jazz』が最後の作品で、晩年は病気のために両足の切断手術を受け、表舞台に立つことはありませんでした。
そして、1996年に79歳でこの世を去ったのです。
そんな劣悪な環境からトップシンガーへと成り上がった彼女だからこそ言える名言があります。
”Just don’t give up trying to do what you really want to do. Where there is love and inspiration, I don’t think you can go wrong.”
「貴方が本当にやりたいことをしようという努力をやめてはいけません。愛とインスピレーションがあれば、私は貴方が間違った方向に行くとは思いません。」
思い出の曲を。
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