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サニー・ボーイというヒト

  • キクチテッペイ
  • 2016年12月10日
  • 読了時間: 3分

サニー・ボーイというブルースマンをご存知でしょうか?

僕が彼を知ったのは確か中学三年頃でした。

ジャズやロックが好きだった父の影響で中学入学頃から洋楽にのめり込んでいき、当時ネットが身近ではなかった上に田舎に育った少年菊地は音楽雑誌を読み漁り好きなアーティストのインタビューから彼らが影響を受けたアーティストを聴いて、更にそのアーティストが影響を受けた、、、

と終わりのない探訪を続けブルースという音楽にたどり着きました。

当時彼らに憧れてブルースハープ(ハーモニカ)を買ったのを今でも覚えていますが、全くと言っていいほど上達しませんでした、、、

サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ(1899年12月5日〜1965年5月25日)

米国ミシシッピ州出身のブルース・ハーモニカ奏者で晩年の1950年代〜1960年代にかけて、チェスレコード傘下のチェッカー・レコードから数多くの作品を生み出し、シカゴ・ブルースの歴史に大きな足跡を残したヒト。

独学でハーモニカを学び、他にギター、ドラムも学んだという。

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(ちなみに左から2番目がサニー・ボーイです)

1941年、とあるラジオ局で始ったブルース番組に出演するようになった。

当時彼はレコードを出していないのにも関わらず番組出演によりアメリカ南部で人気が高まっていくようになる。

番組のリスナーには後のザ・バンドのドラマーとして活躍するリヴォン・ヘルムもいて当時彼はウィリアムソンについてこう語ったという。

"オーバーオールに麦わら帽をかぶった、じかに見るサニー・ボーイは、迫力に満ちた印象的な人物であった。分厚い唇は長年ハーモニカを吹いてきたせいで硬くなっていた。ぼくは彼がハーモニカに向かって歌っているのに気づいた。彼の声は金属製のハーモニカを通って、剃刀の刃のように研ぎすまされてから、マイクに到達する。それが歌に、特別な金属的な衝撃のエネルギーをくわえる。"

この言葉がいかにハーモニカが彼にとってブルース(あまり恵まれてるとは言えない自分たちの境遇や憂鬱)というものをありのままに、しかももの凄いエネルギーで表現する術だったのだろうかと。

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後にシカゴのチェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約。この頃から拠点も南部からシカゴへ移している。同年、チェッカーにおける初セッションでレコーディングされた"Don't Start Me To Talkin'"がR&Bチャートの3位を記録する。

その後も"Keep It To Yourself" (1956年; 同16位)、"Help Me" (1963年; 同24位)とヒットを生んでいる。[6]。チェッカーのウィリアムソンはトランペット時代よりもぐっとモダンなサウンドとなり、また彼のハーモニカのプレイは、シカゴ・ブルースにおける基本形として、多くの後続プレイヤーに影響を与えた。

映画「ラスト・ワルツ」の中で、彼の思い出話を語る所。ハープ吹いて時折血ヘドを吐きながら演奏してたというエピソードには強烈な印象を受けました。毎晩浴びるように酒飲んで、晩年は完全に内臓をヤられていたようですが、ブルースマンの壮絶な生き様というものが伝わってくる話です。

巨大な手でハープをすっぽりと包み、奏でるとういよりむしろ感情や境遇を爆発させる様な姿はとてもインパクトがあり鮮明に記憶に残っています。

そんな当時の音楽事情やレーベルの話、彼らがどんな道を歩んでいったのか。

当時のファッションやヘアスタイル、空気感が伝わって来るオススメの映画があります。

偶然か必然か、サニー・ボーイの生まれた12月5日に本国で公開となった『キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語』

是非一度映画、音楽共にご覧になってみてください!

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